真保裕一

真保裕一の著書40冊を2回目の読了をした。

最近の読書は、専らネットで検索予約ができる藤沢図書館から毎週2冊の割合で借りてきて、毎月8冊、年間約100冊という少量をスローペースで熟読している。

私も高齢となり人生の先行きも短くなってきたので、今まで感動を受けた作家に限定して読み返すことにしており、宮部みゆき60冊、松本清張120冊、東野圭吾90冊、池波正太郎100冊、藤沢周平60冊、山本周五郎60冊、真保裕一40冊、その他70冊の約600冊を繰り返して読んでいるが、7年ごとに読み返すので内容をほとんど忘れており、何時も新鮮な感動を覚えながら読書を楽しんでいる。

これまで2巡した作家は、宮部みゆき、松本清張、池波正太郎、真保裕一、横山秀夫の5人で、今年は東野圭吾に取り掛かる予定である。

若いころに繰り返して読んでいたのは、ロマンロランのジャンクリストフ、吉川英治の宮本武蔵、司馬遼太郎の竜馬がゆく、五木寛之の青春の門であるが、今では繰り返し読む本の中に入っていない。

松本清張 落差 雑草群落

このところ読書に付いてブログにアップすることが少なくなってきているが、相変わらず2週間に6冊の割合で図書館から借りた本を、就寝前に3時間ほど毎日続けて読書しているのである。

ただし、最近はほぼ選択した著者に絞り込んだ本を、繰り返しの2順目に入って読むようになっており、新しい著作者への展開がほぼ途絶えてしまっているのが、少し寂しくもあり残念でもあると思っているのである。

松本清張120冊、山本周五郎60冊、池波正太郎130冊、宮部みゆき60冊、藤沢周平60冊、東野圭吾80冊の、合計して約500冊が今の私の読書範囲になっており、山本一力、横山秀夫、真保裕一、佐伯泰央、恩田陸、北方謙三等の30冊程度まで読み込んだ、新しい著作者の本を更に読み進もうと言う気持ちに、今はならないのが残念である。

寝床の中で読むには、文庫本が軽くて最適なのだが、今は2順目に入っているので、文庫本に無いタイトルのものを、分厚く重い全集で苦労しながら読んでいるのである。

松本清張の「落差」、「雑草群落」ともに、藤沢市民図書館には文庫本がなかったので、全集を借りて今日読み終えたが、美味しい料理をたっぷり食べ終えた後の満腹感を全身で感じられる満足であった。

読書

今日は朝から雨が降り続き、19:00までに43mmの累加雨量になっている。雨の日は読書で、溜まったブログをアップしてから、松本清張の「事故」をゆったりと読み進めた。

最近はすっかり読後評をアップしなくなってしまっているが、相変わらず読書は細々と続けているのである。

近頃は図書館のネット検索で予約する手間が面倒になり、ネット予約をしないで、書架にある文庫本を4冊借りて来て、毎日午前4:00~6:00の約2時間を使い、約2週間で読了したら、図書館に行って返却し、書架に置いてある本を4冊再び借りて戻って来ると言うパターンを繰り返している。

従って新しく刊行される本は全くの対象外となり、ハードカバーでは無く、新刊から10数年以上経過した文庫本ばかりを対象にして読み続けているのである。

大好きだった藤沢周平と山本周五郎を全て読み切ってしまったので、最近は松本清張ばかりを読み続けているのだが、そろそろ全ての作品を読了しそうな段階に来てしまっており、早急に次の読書対象作家を考えなければいけないのである。

私自身は司馬遼太郎を読み続けたいのだが、4~8巻の連続する長編ばかりなので、功名が辻、世に棲む日々、竜馬が行く、坂の上の雲の後に続く本が、図書館の書架には見当たらないのが残念である。

来年からは再びネットを使って、人気作家である宮部みゆき、横山秀夫、真保裕一の本も予約して行きたいと思っている。

読書をしていると、現実に生活している空間から、一気に世界が無限大に広がって行き、魂がリフレッシュし若返ることができるのである。

読後には何時も青年sfwatanaが活動しているのである。

山本周五郎 虚空遍歴

山本周五郎の「虚空遍歴 上下」を読了した。

旗本の次男である中藤冲也は端唄の作者として全国的な人気を得ていたが、即興の軽い芸である端唄に満足できず、本格的な芸術である浄瑠璃に新しいふし付けを入れ、人間の本性に触れる事柄で人々を心底から感動させたいと、端唄と縁を切り、侍の身分を捨てて浄瑠璃の冲也ぶしの創作に一心不乱に打ち込むのである。

新しいふし付けの浄瑠璃の初演は好評を博すが、本人が知らない所で妻の実家から公演の資金が援助されおり、作られた人気であったことを知り、自分の力だけで浄瑠璃を極めようと江戸を離れて大阪へ行くが、大阪の人情は江戸とは異なり無残な失敗に終わり、次第に酒に溺れて身体を壊し、北陸へと流れ落ちて行くが、アル中のため唄が歌えなくなり、破滅してしまうのである。

冲也は自分の才能を信じて、何もかも自分の力だけで高い理想を実現するため、困難に正面から立ち向かい戦うが、現実に敗北や失敗を重ねる中で、自分の才能を自分でどんどん殺して落ちぶれて行き、ボロボロになって死んでしてしまうのである。

「人間の真価は、その人が死んだとき、何を為したかで決まるのでなく、彼が生きていたとき、なにを為そうとしたかである。」というフレーズが繰り返され、冲也は高い理想と低下する才能との広がる一方の格差に苛まれながら、絶望的な悪あがきを続け、何も達成できず破滅したのである。

作者はこのフレーズを座右の銘にしていたと解説に書いてあったが、普通の社会人は何を為したかで評価されるが、芸術家は違うようである。冲也の凄まじい生きざまに、私は感動より狂気を感じ、恐ろしさだけがいつまでも胸の中に残ってしまっている。

山本周五郎 ながい坂

今日は、朝からしとしととか細い雨が降り続く、梅雨のような一日であった。

雨の日は読書で、山本周五郎の「ながい坂」上下をじっくりと読み込んで読了した。

下級武士の子として生まれ、子供の時に父と一緒に釣りに通い慣れた橋を落とされ通行を止められる出来ごとに出遭い、それが城代家老の息子の勉学に静かな環境を保つためだと知り、一人の人間として目覚める。

試験に合格して上士の子供しか通えない藩校に通い、学問と武術に精進を重ねるうちに、英明な若き藩主に見出されて異例の抜擢を受けるようになるが、お家騒動で藩主が隔離されると、一転して命を刺客に狙われるようになり、荒れ地を開墾する百姓となるが、雌伏の末に前藩主を復権させて城代家老にまで上り詰めるという出世物語である。

環境の劇的な変化に遭っても諦めずに、人生というながい坂を地道に努力を重ね歩き続けるくそ真面目な青年の一途な生きざまが、清々しく胸を打つ感動作品である。

思い返して見れば、平凡に終わった私の会社人生も、40年という長い期間に渡り、勤勉実直に働き続けて来たことだけは事実であり、それだけで良かったのだと今では納得しているのである。

山本周五郎 正雪記

山本周五郎の「正雪記」を読了した。昭和32年の作品である。

江戸幕府が三代将軍まで過ぎ、関ヶ原の合戦、大阪の陣、大名の取り潰し等で、巷に溢れる数多の浪人群による社会不安の芽を摘み取るために、松平伊豆守信綱が由井正雪による東西呼応謀反計画事件をねつ造し、これを口実にして浪人を徹底的に弾圧排除した事件についての物語である。

謀反計画が未遂に終わり、阻止された事件としては、余りにも膨大な数の参画者たちの名前や親族名、処刑の時期や場所が正確に記録に残され過ぎていることから、作者は史実では無く当局者によるねつ造の臭いを強く感じて、かなりの労力を費やして事件の内容を調査したようである。

歴史書では無く、時代小説であるのでどこまでが史実なのは不明であるが、正雪が幼い頃、工事現場で見かけた浪人が日雇い賃の支払いを拒否され、「侍だって人間に変りは無い、侍だって妻子を喰わせなければならない、浪人して扶持に離れれば、たとえ人足をしても侍だって生きて行かなければならない、そうじゃないだろうか」と訴える光景を見て、世の中の不合理なものに目覚めて行く過程を作者は描きたかったのだろう。

山本周五郎は登場人物の性格描写がいつも丁寧であるので、時間を掛けながら作品の中に気持ちが入り込み、小説の世界に没頭してしまうのである。感銘を受けた作品であった。

山本周五郎 赤ひげ診療譚

昨夜から降り続いていた雨が、夜になってからも止むことなく降り続いている。雨降りの時間は24時間を越すほど長いが、累計雨量は25mmとあまり多くない。

雨の日は読書と、山本周五郎の「赤ひげ診療譚」を読了した。同世代より少し若い釣り仲間のK氏の青春小説だと聞いていたが、孤独死が頻発する今時の時勢からは考えられない、濃厚な人間関係と人情が、物語の中に書き込まれており、私は読み進みながら心の底から感動したのである。

狂女の話、駆け込み訴え、むじな長屋、三度目の正直、徒労に賭ける、鶯ばか、おくめ殺し、氷の下の芽の8編の短編からなる長編小説で、著者が55歳で最も油が乗り切った絶頂期である昭和33年の作品である。

主人公は長崎に3年間留学して勉学に励んできたエリート医師で、最下層の庶民を無料で診る小石川療養所の赤ひげ先生と出合い、反発しながらも次第に赤ひげ先生の人格に魅せられて行く物語である。

今時は真摯な心情の吐露をも「寒い」と表現するらしいが、熱い心情に火を点けられた男は、赤ひげ先生や両親の制止を振り切って突き進んで行くのである。

 

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